TYK career

このページに来たあなたはえらい!・・・・・もれなくプレゼントはあげません・・・が・・・・きっと良い事があるでしょう。


ここのweb masterはTYK(TDKやYKKでは無い)ですが、少しだけ自己紹介をしておきます。

inhabitation;  北陸地方の田舎、富山県南西部の福光町に生息している
characteristic; 特になし、四十路半ばの小太りなおっちゃん
hobby&taste;  電気いじり、広く浅く何でも行なうが、知っているようで何も知らない
          電気電子的な懐古情緒を楽しむ傾向がある。

これ以上は、このページにこれから「思いのままに、徒然を書いて」いきます。創造力を豊かにしてTYKを創造してください。・・・・・・hi
十分ご存知の方も、「あぁやっぱりな・・・」「あいつなら、その通りかもしれん・・・」と笑って許してください。     (^o^)丿


・「ブレケケ、ケケス・・」  テレビの思い出

初めて、電気を意識したのは何時の頃か・・・・・当然、もの心がついた頃には、テレビも電話も有ったような気がする。しかし、天然色ではなかった。
初めて自分が触ったスイッチは、テレビのスイッチかもしれない?? チロリン村とくるみの木がお気に入りだったという事らしいが、定かでは無い?? ただ「ブレケケ、ケケス・・」なる言葉を今もなぜ知っているのか(脳裏にへばりついているらしい)は、自分でも不思議でならない。(河童のようなイメージも残っているのだが・・・・)

記憶と言う物は、視覚に訴えられた物が余計に残るようで、意外と電話の記憶は残っていない、しかし、隣家の人が電話を借りに来ていた記憶はぼんやりとは有る。
こんな訳で、私のような世代からは、ほとんど電気なる物を意識せずに育った世代で有ろう。
そういえば、テレビも今のようにスイッチポンではなかったなぁ   スイッチ入れて画面が出るまでの間にはトイレに行ける位時間が必要で、場合によってはスイッチを入れてから「ブ〜ン」というハム音が聞こえていたような気もする。
画面が出るまでの間は、きちんと座って真っ暗なブラウン管を凝視したのは、私だけでは無かろう。
また、ガチャ・ガチャとチャンネルをしきりに回す物だから、「壊れる・・・」としかられ、チャンネルを余り切り替え無いようにさせられたのは私だけか??
テレビの上にはニャンコが寝ているのが、定番の風景ではあったなぁ・・・・


・乾電池は囲炉裏の中

田舎で囲炉裏があるのが珍しくも無かった時代、(当然TYKの家にも有った)その中には、薪が炊かれ、モチなどが焼かれているのが普通でした。
そのせいで、家の天井の柱はススで真っ黒、天然コールタール状態でした。しかし徐々に、囲炉裏は掘りコタツ・・・電気コタツと変貌していき、現在は広間といわれる部屋にのみ残っている家がほとんどと成っています。(砺波地方では)
テレビのスイッチも上手に点けれ、チャンネルも壊さないで回す事が出来るようになった幼少のTYKが学んだ事は、「電池は囲炉裏で暖めて使う」という事で、当時我が家の囲炉裏の中にはたまにモチ等と一緒に乾電池が灰の中に埋めてありました。

その時は、「そうか、乾電池が無くなれば、あぶれば良いんだ・・・」と変に幼な心で納得してしまいました。
これをやっていたのは、TYKの祖父でけっして火の中に直接入れるのでなく、今考えてみると、微妙な距離を確保されていたようでした。
また、復活の度合いは、メーカーによってこれも微妙に異なる様でした。灰の中に2/3程度埋めるのがコツの様でした。
しかし、これは当時の乾電池だから多少メリットがあった訳で、今日こんな事までして使用する事も無いでしょうし、乾電池の構成も替わり危険な事から、その後乾電池に「火の中に入れないで下さい」と記述が書かれるようになったようです。この表記も現在はされる事も無く、囲炉裏の中に埋まっている乾電池は、ここ30年以上見た事は有りません。 \(^^;)...マァマァ


・プラモとマブチモーター

こんな事を覚えている方はいらっしゃいませんか? テレビでプラモデルの解説番組が昭和30年代後半から40年代前半に掛けて有ったような気がするのですが・・・・

テレビやラジオのスイッチを入れる事と、乾電池を囲炉裏で暖める事を覚えたTYKですが、小学生ともなると、当時盛んにはやったプラモデルにも反応しました。
パットン戦車・スクリューの付いた戦艦大和など、ラジオコントロールでは無いのですが、電源コードを引っ張ったリモコンに魅せられたものでした。

   

そして、これらのプラモにはマブチモーターが決まって採用されていました(ほとんどこれしかなかったのか?)。モーターは号数が大きくなるほど強力でモーターだけを集めていた子もいました。
一応、プラモを作るくらいですから乾電池にプラスとマイナスが有り、豆電球やモーターを結線したりする事は自然と覚えましたが、付属していたシールを貼るのが苦手で、いつも傾いて貼り付いていました。
(今も自作機のデザインが下手なのはこの頃からでしょう・・・・hi)
前述のテレビや当時の子供向けの雑誌「子供の科学」「模型とラジオ」などが、最大の情報源であったのですが、雑誌などは数ヶ月に1冊程度しか買いませんでした。(当時「初歩のラジオ」などの制作本が有りましたが、TYKには難しく、「子供の科学」がやっと理解できる限界でした。)
マブチモーターは回すと勢いよく周り、なんとなくきな臭い匂いがしたのですが、それがたまらなく心地よく、一種のチャイルドシンドロームに慕ってました。(叱られるかもしれませんが、セメンダインの匂いもけっして嫌いではなかった・・・・・m(_ _)m )
ただ、せいぜいプラモデルは1〜2ケ月に1台が関の山で、ほとんどは外で遊んでました・・・・

TYK局御幼少時代の代表的な遊び
晴れた日 雨の日
田んぼソフトボール 学校のグランドまで遠いので田んぼでソフトボールをしたが、地面が固くなると叱られたものです。 プラモデル制作 前述の通り
缶けり 普通の缶けりです。 広間でのプロレスもどき 近所の子とのじゃれ合いがケンカに発展する事が良くあったが、いじめだと言って問題になった事は無かった。
杭さし(釘さし) これも田んぼでの遊び、木製の杭を
投げ刺して相手の杭を倒す遊び
○○本読み
   (拝み)
近所のガキ大将が持っており、拝ませて頂いた。 アリガタヤ・・
川での魚採り ズブズブになって帰って叱られました・・・hi ラジオ壊し 作る事は出来なくても壊す事は出来た。
山での木の実採り ほとんど真っ暗になるまで遊んでました。      

・電子ブロック

この手のおもちゃは、数社から発売されていたようで、ご多分に漏れず小学生の高学年になって買ってもらったような覚えがあります。
1・2石のレフレックスラジオ、アンプ、ワイヤレスマイク、もちろんゲルマニュウムのラジオ等がブロックを入れ替えることで簡単に組立が出来たものです。
まったく回路図もわからず、説明書の通りにすると何とか動いた物ですが、接触部分が上手く接続されていないと動作せず、ちょっと刺激(たたく)を与えてやると動いたものでした。
修理・故障の発見は「たたく」が基本である事も、このとき初めて知ったわけです。  (・_*)\ペチ
現在、跡形もなくこの電子ブロックは無くしてしまいましたが、付いていたクリスタルマイクとイヤホンは、現在も骨董品として、ジャンク箱の中に眠っているはずです。
※ このおもちゃは当時結構な値段で、別にはやっていたレーシングカーのおもちゃとはチョット異質の存在感が有り、お坊ちゃまのステータスを示す一品だったかもしれません。
よって、TYKさんは田舎のお坊ちゃまだったのかな??

    

最近では、復刻版やバーチャル電子ブロック等というソフト的に回路を作り、それを評価するなどと、私には理解しがたい物まで有るようです。
画面の製作でOKならハンダコテが要らなくて良いかもしれませんが、ハンダコテで火傷をする事も大事なノウハウですけどネ ・・・ 机上と実際は絶対に違うと思うのはTYKだけでしょうか?


・パーツはクズ屋

大都市圏に住んでいる方は、秋葉原・日本橋等、普通の電子パーツの調達には余り不自由は無いだろうと思いますが、地方に住んでいる方はどのようにパーツの調達をされましたか?
電子ブロックで楽しめる間は良かったのですが、それで物足りなくなると、どうしてもパーツの調達が必要になってきます。
TYKの住んでいる富山県の片田舎では、それといったパーツ屋さんは有りませんでした。(昭和40年代になって数件出来ましたが、現在は有って無いが如しの状態に逆戻り。)
そこで、友人等とたむろしたのがクズ屋さんでした。昭和40年前半頃までは、こんな片田舎の町でも数件のクズ屋さん(廃品回収業者)が有りました。これらの店には、必ずといってラジヲの回収品やテレビの回収品が数台転がっていました。
もちろん、真空管式の物で、ラジヲ等はST管の物が廃品の主流でした。クズ屋さんの目的は、せいぜいその中のトランスやシャーシが目当てであり、真空管や中のパーツはそれこそ邪魔で廃棄物その物となっていました。
相場は、ラジヲが一台500円位でテレビが700円とラジヲの方が割高だったのを覚えています。当時買った物の何台かは今も動いていますし、集めた真空管なども後生大事に現在も持っており、その後集めた物と合わせ、数千本の収集品となってしまいました。
80−6ZDH3A−6C6−6WC5−6D6−42等、今でもクズ屋さんの中のラジヲで拾い集めたのを昨日のように覚えています。・・・・・hi
42や6ZP1を使ったampの製作・テレビの水平出力管を使用したワイヤレスマイク(と言うより送信機だった、自分で作って20km近く飛び、びっくりして7MHzに改造した覚えがあります。)・テレビを利用したオシロスコープなどは、友人のH.K氏が先頭になって製作してくれ重宝しました。



つづく